私が思うこと(2)

2011/05/10

東日本大震災と原発事故に関する寄書き

臨界幻想が現実に 河東 けい (関西芸術座 演出家・俳優)

 丁度30年まえ、私たちは“原発そのものが原爆と同じくらい危険なものとして人体に影響する”という内容の演劇をした。<臨界幻想>、東京の青年劇場は千田是也先生を演出に迎え、全国の原発地で公演、私は大阪で作者ふじたあさや氏に助けられつつ演出した。当時、原発被害は作業する人々に現れ、裁判沙汰にもなっていたが、良心的な記者によって社会問題として取り上げられても、すぐ消えた。当時から、狭い、地震国日本で、いざ!という時は?、という不安と危険は厳然としてあったのだ。そして、今、――私たちは、ただ不安の中に取り残されるだけだ。
 地震、大津波の異常な災害に加えて原発なのだ。この大自然の怒りは、21世紀の我々に向けられた。ただ、無力としか言いようのない私たちは、せめて自分の出来ることで援助したいと思うのみ。今、三公演を控えて多忙の劇団の間を縫って、6月にはチャリティ公演をしたいと企画中。東北の魂のような“宮沢賢治”を取り上げる。因みに、賢治の生まれた明治29年(1896年)8月27日の4日後、陸羽大地震が起こり、三陸大津波、大雨、大洪水、赤痢、チフスと天災相次いだ年との事である。              


東日本大震災と福島原発 金光 宗夫

 この大地震は津波と同時にきたため、多くの被害者がでています。阪神・淡路大震災を経験しましたが、特に津波が家・車をオモチャのように投げ飛ばす情景をテレビで見て、避難が大変だったと思いました。さらにエリヤが広く何県とまたがり、死者・行方不明者は現在3万人弱となっています。さらに3万人を超えるともいわれています。
 再建・復興も福島原発事故による放射能汚染の解決の見通しがはっきりせず、支援・復興を遅らせています。さらに放射能汚染により、農業・漁業者と労働者の生活と暮らしに大被害与え、生活がおびやかされています。
 福島原発事故については、吉井衆議院(日本共産党)が2005年、昨年5月に地震や津波による「電源喪失」が招く炉心溶融の危険性を指摘。今国会では、寺坂経済産業省原子力安全・保安院が、当時の認識の甘さがあったことは深く反省している。それに加えて、菅首相の原発視察などで海水注入が10以上遅れたことは、まさに人災といえます。
 原発事故の危機収束には全世界の専門家の協力を得てあたり、情報隠しのない正しい情報公開が求められています。そして、全国の原発の総点検と防災対策が急がれています。今後は、ドイツのように再可能エネルギー(太陽光・風力・地熱)の方向へ変えていく戦略が急がれています。
 復興財源(補正予算)では、年金財源(36%から50%)引き上げのための2.5兆円を削る動きには断固反対して、大企業・大資産家の減税の中止と、「震災復興国債」を発行して大企業に引き受けを要請すべきです。

震災と復興 古川 明
 
 私は、週末、宮城県の避難所に救援物資を届けているNPO法人の車に便乗して、義捐金を届けに行って来ました。一人ひとりは微力でも、結集すれば大きな力になると信じています。被災地の一部では仮設住宅の建設が始まりました。その先には本格的な復興が待っています。しかし、単に復興しても元通りの生活を取り戻すのは難しいでしょう。
 ならば、東北地方をクリーンエネルギーと万全の防災機能を備えた世界最先端の一大地域に生まれ変わらせることが必要でしょう。被災地にグリーン環境都市を建設することは可能だと思います。いま、日本は不景気の真っ只中です。復興に必要な、巨額の財源をどうするのか?。政財界では「復興税」名目で消費税などの増税論が浮上していますが、これは安易な発想です。
 私は政府が持つ70兆円の米国債権を担保に、「日銀引き受け」による戦災復興債権の発行が良いと思います。これは、悪性インフレを生む危険があるので財政法で禁じられていますが、特別の理由がある場合は国会決議を経れば可能とも定めています。未曾有の大震災です。勇断を以て実行すべきではないでしょうか。
 一方、企業は250兆円もの内部留保を抱えています。民間銀行の貸し渋りで、カネが回らないから景気も悪い。これを吐き出させれば三方回復します。一カ所で詰まっているところが発生すれば、脳梗塞か、心筋梗塞にもなるのです。250兆円の2割でも50兆円です。
 さらに、経済産業省を東北に移すという方法も考えられます。そして、経産省の主導で企業に東北へ移転してもらうのです。法人税を免除する代わりに雇用を生み出すことができます。経産省は戦後の日本企業を「一流」にするための役所でした。優秀な官僚に今度は東北で力を発揮してもらえばよいとは思いませんか?。

雑感 中村 陽一

 東日本大地震と大津波の惨状は眼を覆うばかりです。そして、原発事故は、世界最悪のチェルノブイリの事故と同レベルのレベル7と評価されるに至りました。震災と大津波からの復興も、原発の鎮静化も、数十年かかると言われています。
 この状況について、日本の西洋史学をリードしてきた大阪大学名誉教授の川北稔氏は、4月7日の朝日新聞のオピニオン欄で、「近代とは、経済成長を前提とした時代で、経済成長を支えたのが地理的拡大と科学技術だった。地理的な拡大は地球に限りがあり壁にぶつかった。その壁を乗り越えたのが科学技術であり、科学技術は経済成長を裏打ちする『魔法の杖』だった。ところが、最も科学技術が進んだ日本が巨大な津波に負けてしまった。そして、科学技術が生んだ原発が災厄を生み出し続けている。人間が作り出したものによって人間が災厄を受ける、その意味で今度の原発事故は戦争に似ているかもしれない。………たしかに、アジアのトップを走ってきた日本は、世界のトップを走っていたポルトガルがイギリスやオランダに追い抜かれたように、アジアのトップでなくなるかもしれない。ただし、それが不幸かというと話は別だ。現在のポルトガルは、むしろある意味で安定し、人々は幸せな人生を送っているのではないか。もっとも、それを『安定』と受け止めるためには、我々の価値観、メンタルな部分が変わる必要がある。以前と同じ、『ずっとトップを走らないと不安』ということでは、『被災後』を上手くやって行けないだろう」
 今回の原発事故で「原発安全神話」は木っ端微塵に吹き飛んだ。「止めて、冷やして、閉じ込めれば安全」というが、冷却システムだダウンすると手が付けられない状況になる。そして、広範囲に放射能汚染を広めてしまう。原子力はやはり、人類が安全にコントロールできるエネルギー源とはいえないようだ。これから日本は原発頼りの電力システムでなく、太陽光、風力、潮力、地熱、バイオマス等々の、持続可能な自然エネルギーによる発電へと向かわざるを得ないだろう。そして、遠い地方の巨大な発電所で発電した電力を都会や工業地帯に送電線で供給するような電力供給システムでなく、自然エネルギーを用いた地域分散型の小規模な発電システムをネットワーク化するような電力供給システムへと変わらざるを得ないのではないか。そういったシステムを築き上げるには、地域に根ざした発電にかかわる市民グループとの協同も必要であろう。ドイツでは、既に、自然エネルギーによる発電の割合が17%に達しており、今後更にその方向を強めるとの事。
 また、「大企業の国際競争力を強めれば、日本経済が良くなって、国民生活も潤う」という「経済成長神話」は、既に震災の起こる前から嘘っぱちだということは明らかだった。このことは、この10年間、政府は企業減税や税制上の優遇措置などによって大企業を保護をし、また、財界の望み通りに派遣労働法を改悪して派遣労働の自由化を図った結果、多国籍企業である大企業は利益を積み重ね、内部留保が244兆円にも達するにかかわらず、賃金が上がらず、首を切られる労働者も増えて、国民生活が最低の状況に落ち込んだことからして明白である。そして更に、先の川北氏の指摘のように、科学技術の粋を尽くした原発の事故で、首都東京が停電に追い込まれてしまい、住民の生活も工場生産も多大な損害をこうむっている。科学技術という『魔法の杖』も折れて「経済成長神話」も木端微塵にが吹き飛んでしまったと言えるだろう。
 今起こっている事態は、戦後日本が経済に特化して、「経済成長」を国是とする方向で歩んできたあり方の見直しを迫っているのではないだろうか。弱肉強食の競争を是認し、敗者を自己責任で切り捨て、効率万能でゆとりも余裕もなく、あくせくと、せかせかと、………人と人のつながりが断ち切られ、老人の孤独死や親殺し・子殺しが蔓延し、………そういった社会ではなく、第一次産業の農林漁業が大切にされ、高い技術を持つ中小零細企業が大切にされ、労働者が誇りをを持って働くことが出来、人のつながりと輪が広がり、日本の伝統や文化が大切にされ、日本的美意識などのメンタルな遺産がよみがえり、戦争を放棄し戦力の不保持を宣言した憲法九条や、健康で文化的な生活権を保証した憲法25条が守られるような社会が、追求されるべきではないだろうか。
 今回の災厄は、日本人に、文明史的な省察を要求しており、そこから明るい未来が開ける可能性があるのではないだろうか。そういう社会を作るべく多くの人々との協同の輪を広げて行きたいものだと思う。

小山 乃里子 (ラジオ パーソナリティー)

その昔、阪急ブレブースの大フアン立った。年間指定席を買い集め、暇があれば、西宮球場に通い詰めた。
セリーグは余り知らないが、パリーグの面白さに、野次がある。「オーイ、飯食うたかぁ」やせた選手への言葉。「今日は、学校終わったんかぁ」小柄な選手への掛け声。その中に、ピッチャー交代時の野次がある。まず、蛍の光のメロディーが、トランペットの物悲しい音色で流れ、やがて、大援団の大合唱。「ダーレが投げてもイッショ」。最近、この言葉が時々頭に浮かんでくる。時には激しい怒りと共に、時にはあきれ果てたため息と共に。「ほんまに、ダーレがやってもイッショ!」
正直、少しは期待していた。華々しく日本中を巻き込んだ「政権交代」というものに。あっけなく期待は怒りに変わって行った。まずは、沖縄の基地問題。必ず、基地を県外へ、と言う言葉は、あっという間に消えた。これだけの交渉をしたけれど、進展は見られなかった。これからも粘り強く交渉を続けて行くので、今しばらくの猶予を、なんてことでもない。関西弁でゆうならば、「ゆうて見たんですけどなぁ、あきまへんでしたゎ」
あかんやろ!それでは。もちろん、外交上の交渉内容など、我々に聞こえてくるはずもないけれど、きちんとした交渉が行われたのか、それすら疑問に思えてくる。
そうこうしている内に、今度は、沖縄、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件だ。衝突というより、どうみても攻撃だと思うが、こっちの対応のあきれるほどの歯がゆさ。尖閣諸島は我が国の領土であると、国会でいくら答弁しても、中国には届かない。事件が起きたその日に、中国に向けてその発言をしなくっちゃ。
中国での反日デモのニュースが連日流れたある日、犬猿の仲のおじさんとこんな会話になった。
「日本、なめられてますなー。こうなったら、日本も軍隊を持たな」
「なんで軍隊を持つ、と言う話になるのかなー・・・」
「強い国家にたいして、あんな態度は取られへん。強い国家ちゅうのは強い軍隊を持つ、ちゅうことやろ・・・」
「そら違うと思うな。強い国家と言うのは、百万の軍隊よりも、正論を、堂々と強い口調で話せる政治家がいる国だと思うよ」
「そりゃぁ、俺だって戦争は二度とゴメンやし、軍隊もいやや。けど、最近なんかイライラするねん。日本はどないなるんやろ」
 犬の散歩が、思わぬ話になった。外交は力だけでなく、言葉だ、と常日頃考えている。もちろん、力も必要だ。この場合の力とは、その国の国民の強い意識の力。日本ならば、それは「日本には、軍隊を持たない、戦争をしない、という素晴らしい憲法がある。世界のどの国にも負けない、素晴らしい憲法なのです」。
 子供から老人まで、誰もが胸を張って、全世界に発信できれば、それは本当の力になれる、と思うのだが。外交上の発言で、今に至るも力強いものは聞こえてこない。
こんなはずじゃなかった。もう少し、日本を背負って立つような政治家が、政権交替という中で、出てくるものと思っていた。また、今日も、一人ボソッとつぶやいている。「ダーレがやってもイッショ!」

「小豆島九条の会」が伝える島の記録  

古川 明

戦禍伝える寮母の瞳――
 太平洋戦争中に大阪市の小学校から香川県小豆島集団疎開した児童達と、その世話をした寮母の記録を集めた「小豆島(草壁・安田)の学童集団疎開」が3日発刊された。「小豆島九条の会」が戦争の悲惨さを伝えようと、学童だった7人と寮母だった櫛本イトエさん(91歳)=小豆島町神懸通=らに聞いてまとめた。
 疎開したのは川北国民学校(現・市立川北小=大阪市西淀川区)の3〜6年生約140人。1944年9月、親元を離れて学年ごとに寺や旅館に宿泊、地元の小学校の空き教室で学んだ。櫛本さんは西淀川保険所で保健師をしていたが島出身だったため上司の勧めで寮母になった。
 戦時中であったため、配給制で石鹸はほとんどなく子供達の服はノミやシラミだらけ。櫛本さんは井戸から水を汲み湯を沸かし、一枚一枚洗った。一日3回の食事はほとんど雑炊。子供らは夜になると寂しさと空腹で泣き、「お母さん、お母さん」と走り回った。櫛本さんはそのたびに抱きしめて背中をトントンと叩いてやった。放課後は海が見渡せる近くの山へ連れて行き、「海の向こうに大阪があるんや」と慰めた。子供達はいつまでも遠くを眺めていた。
 空襲警報は毎晩のように発令された。櫛本さんは子供達を起こし、提灯に風呂敷をかぶせて暗闇の中を田んぼまで避難した。こっちを起こすとあっちが寝る。旅館を出る頃には警報解除になることがよくあったという。
 だが45年7月4日未明は違った。「ドーンッ」という爆音と共に米軍のB29爆撃機が何度も頭上を旋回。照明弾が何発も落とされ、辺りは真昼のように明るくなった。高松方面の空がパーッと明るくなった。高松空襲だった。「こわいよ〜」。非難し身を寄せ合った。「ここにいたら、大丈夫」。26歳の櫛本さんは必死だった。
 これらの描写は東京大空襲と違わないと思う。東京大空襲が最大の空襲で、高松の空襲はたいしたことはなかったという考えたかはしないほうが良いと思います。



中学生の作文・「平和と憲法九条」

谷口 勇士

 僕は憲法九条のある国、日本に生まれて本当に幸せだと思います。世界に190余りある国で、このような憲法を持っている国は極めてまれなのであります。そんな中、僕はこの国に生まれました。それには何か意味があるのかもしれないと考えるようになりました。僕の学年では昨年12月から平和学習をしています。真珠湾攻撃を始め、主に第二次世界大戦、太平洋戦争の映像を見たり、文章を読んだりして勉強してきました。神戸大空襲、東京大空襲、沖縄地上戦、そして広島・長崎の原子爆弾などでした。どれも悲惨で生々しく、心が痛んだ。
 「何故、こんなひどいことが起こったのだろう」と思った。戦争によって何もかも失ってしまった人たち。見ていて読んでいて、とても辛くなった。正直、自分はこんな世界では絶対に生きたくないと思った。そして、今年の6月、修学旅行で長崎へ行った。原爆公園爆心地での平和記念式典。ここであの「地獄」が始まったのだと思い、空を見上げた。真っ青な空だった。その後で行った原爆資料館。どれも目を覆いたくなるばかりだった。溶けて曲がった「瓶」。焦げた硬貨。そして大火傷を負った人の写真。改めて原爆の、そして戦争の恐ろしさを思い知った。戦争は人を「もの」に変えてしまう。長崎の原爆を、世界で使われた「最後の原爆」にしなければいけない、と思った。
 第2次世界大戦が終わって65年、現時点で戦後一度も戦争に参加していない国はわずか7カ国。その7カ国の中の一国に日本が入っているのは、憲法九条の存在が大きい。日本では長い間平和な日々が続き、平和が当たり前になってしまっている。少しずつ戦争を経験した方々も減ってきている。このような状態で、いつ、何かの拍子に戦争が起こってしまうかわからない。今一度僕たちは平和の有難さを心で感じ取らなければいけない。なくなって、はじめて有難さがわかるものもあるが、それでは遅い。手遅れになる前に日本人一人一人が平和について考えなければいけない。憲法の前文にある通り、僕たち国民は恒久の平和を祈念し、平和を愛さなければいけないと思う。
 僕はまだ平和学習を1年くらいしかしていないけれど、これは、一生かけてするものだと思う。戦争について学び続けることによって、本当の平和の意味がわかるだろう。だからこそ、僕たちは一生かけても戦争について学び続ける必要があるのである。
 日本をほとんど壊してしまった第2次世界大戦。その時代を生きてくれた人達に感謝し、その分精一杯生きなければいけないと思っています。平和憲法九条を掲げてくださった、日本の賢人に感謝したいと思います。そして、僕たちは、戦争のない世の中にするためにこの平和憲法を守りたいと思います。



私は今こそ真の平和を訴えたい 

古川 明

 世界ではまだまだ戦争が絶えません。どうしたら良いのでしょうか。一つの答えは、アフガニスタンで復興支援を続けている中村哲先生(ペシャワール会 現地代表)の活動です。中村先生は、干ばつで砂漠化した農地に水を引き、甦らせる仕事に取り組んでこられました。今年の春、稲作の田植をしたところさえあります。難民化した農民が帰っていく故郷を再建しているのです。
 中村先生がおっしゃるには、「武器は必要ない。軍事力や武器は有害無益だ」と。先生が「世界一長い手造りの水路」と誇っていらっしゃる水路建設にかかった16億円はぺシャワール会の人達の会費と善意の寄付で賄われています。日本人がそれだけのお金とボランティアの人材を提供したことを、私たちは誇りにしていいと思います。
 第2次世界大戦が終わった後も、国と国との大きな戦争もあったし、内乱もありました。「人間とは、戦争しなければ生きて行けない生き物なのか」と思いたくもなります。でも、そう言い切ってしまったら何にもならないでしょう。「そうではない」と、私たち日本人は世界に向かって発信する責任と義務があると思います。「私たちはこういう歴史をたどり、こういう平和憲法を持った。憲法を守り、平和を追求していく以外に答えはない」と言いたい。それは世界で最初に原爆による被害を受けた国である私たちに課せられたテーマだと思います。
 「9.11」以降、出兵して息子を喪ったシンディ・シーハさんというアメリカのお母さんは、イラクを始め世界各地を平和行脚して反戦運動の先頭に立っておられます。これこそ、小田実さんがやろうとしていたことなのです。個々がやっていることを地球規模の繋がりにして行く事で、人類は平和で人間らしい暮らし向かって生きて行けるのではないでしょうか。道はあります。そこに踏み出す勇気が試されているのであると思うのです。 2010.12.14


韓国で思ったこと  

藤末浩美

11月23日 北朝鮮から、韓国 延坪島が砲撃され民間人まで亡くなる事件がありましたが、ちょうどその頃、韓国に旅行をしていました。その2日前に、仁川空港からまず向かったのは烏頭統一展望台で、向こう岸は北朝鮮という臨津河を境に南北分断の現場でした。臨津河に沿ってソウルに向かう道路には鉄条網・監視兵が銃を手にしている光景がみられ緊張したのですが、そこから遠くない場所での事件に驚き不安を感じました。
 この旅行は、「平和」をキーワードにしたツアーでしたので、タプコル公園・景福宮・ナヌムの家・西大門刑務所歴史館など見学し、現地ガイドの方に解説をしていただきました。いずれも、解説を聞くのがつらくなるほどの歴史を刻んだ場所でした。1919年3月1日におこった「三・一独立運動」の独立宣言書が刻まれた記念碑と闘争の様子を記した石のレリーフがタプコル公園にありました。1910年日本の完全植民地(韓国併合)とされ、朝鮮民族の文化や伝統を破壊し、日本人になることを強要したのです。そして、半人前の日本人として、遅れた存在として力によって押さえつけ、差別するものでした。これへの抵抗運動は激しく、今日に至るまで続く日本への嫌悪感を生み出しているといわれています。
ガイドさんに「日本をどう思うか」とたずねると、「日本人は親切で好きですが、日本国は好きではありません」とキッパリ言われました。西大門刑務所では、独立運動で捕まった人に拷問していた再現もあり、地元の子どもたちは見学の感想に「日本は嫌いだ」と書いているものがありました。いずれの施設でも、初めて知る歴史(今までちゃんと学んでこなかった)と、韓国の方の思いを強く感じる旅でした。韓国の子どもたちは、自国の歴史をきちんと学んでいることを見て、当たり前だけれど必要なことだとあらためて感じました。そして歴史の過ちを国として謝罪することは、次の時代を作るためには必ず必要なことだと思います。 
ガイドの息子さんが、大学生で現在2年間の兵役についている話を聞き、砲撃事件でどんなにか心配されているだろうかと思いました。日本の高校生の修学旅行のガイドの時には、「韓国は平和ではありません。南北の休戦状態にあるだけです。あなたたちの国には、憲法9条があります。感謝しなさい、戦争に行かなくてもいいのよ、大事にしなさいね」と声をかけるとの話に感激し、すばらしいガイドにお礼を言いたいと思います。



ひとり芝居・ひとり芸と19年

中島淳(文化プロデューサー)

神戸芝居カーニバル実行委員会の立ち上げは1992年である。ひとり芝居・ひとり芸を中心に据えた市民プロデュースで、最初の3年は「ひとり芝居の芝居展」と名付けて、5月の連休に公演を集中させたり、5月〜6月の2か月間で開催したりしていた。4年目からは、年4〜6公演、多い年は10公演を取り組んできたので、19年目の今年の10月公演を終えた段階で120公演を超えた。
 そんな中で、新作、初演を手がけることができたことは幸運であった。最初は、吉行和子さんのひとり芝居「MITSUKO―ミツコ 世紀末の伯爵夫人」(作・演出 大間知靖子)で、吉行さんが1993年から数度の海外公演をふくめて13年間演じ続けた代表作になった。
二つ目は、本会の呼びかけ人の一人である河東けいさんの一人芝居「母」(原作:三浦綾子 脚本・演出:ふじたあさや)である。「母」は小林多喜二の母の視点から多喜二を映し出す優れた芝居である。招かれて中国(上海、北京)や韓国(春川)でも公演した。東灘でも公演したけれどずいぶん昔になるので、来年あたり本会が中心になって再演を実現させて欲しい。新作・初演ではないが、神戸芝居カーニバルと特別に深い関係にあった芸人は故マルセ太郎さんである。知り合って10年毎年何らかのかたちで兵庫、神戸で演じていただいた。東西の優れた映画約20本をまるごと語り、演じる「スクリーンのない映画館」、自身が書き下ろす「立体講談」。マルセさんは2001年1月22日に亡くなられたが、その前年には神戸アートビレッジセンターで、4月から7月までの毎月2演目、計8演目を、「マルセ太郎大全集」として演じていただいた。マルセさんにはそのほかにも無理難題をお願いしたがすべてやっていただいた。たとえば、彼の映画批評に貫かれている、本物を観る視点を縦横に語ってもらいたいと「シネマパラダイス―韓国篇」「シネマパラダイス―台湾篇」をやっていただいたが、これは初演で1回きりの舞台になったと思う。また、神戸の聴覚障害者の団体の要請で「スクリーンのない映画館ー泥の河」を手話通訳で演じて大きな感動を与えた舞台も忘れられない。
マルセさんは講談社から2冊の本を出されたがいずれも絶版になっている。中でも『芸人魂』は出版の年のエッセイ大賞候補になった優れた読み物なだけに手に入らないのは誠に残念である。そんなこともあって、ぼくらは来年1月22日の没後10周年に向けて、『マルセ太郎読本』(クリエイツかもがわ刊)の発行にとりかかっている。
神戸芝居カーニバルの最多出演記録はマルセ太郎さんだが、これを抜く可能性のある芸人さんが松元ヒロさんである。すでに9年連続登場で来年も4月1日、2日の2回公演が決まっている。彼が尊敬する芸人がマルセ太郎であることは決して偶然ではない。



井上ひさしさんを偲んで

河東 けい 関西芸術座俳優・演出家

井上ひさしさんが、今年4月に亡くなられた。ニュースが流れた時、私はテレビの前で呻いた。胸が締め付けられるように痛い―もうあんな作家はいない!と。
演劇界、然り、九条に会、然り、どうなるんだ、これから・・・どうすればいいんんだ、私たちは・・・井上久さんはいつも、遠くにも近くにもある、灯びだったのだ。
あのおおらかな人間像と反骨精魂、どれもこれも井上ワールド特有の劇世界であった。中でも、広島原爆を取り上げた<父と暮らせば>は、井上さん精魂の作品であったと思う。次には、“長崎”を書かねばならない、そして、“沖縄のことはどうしても書いておかねば”、と手が付けられ、完成しないままに亡くなってしまわれた。惜しい、口惜しい。しかし私は、ガツンと打ちのめされるような作品に出会えたのだ、井上作品の最後の舞台となった<組曲虐殺>である。2009年9月の上演、小林多喜二を演じた井上芳雄君のピュアな演技と歌声、全篇をピアノの生演奏で支え続けた作曲家(著名らしいが名前を失念)、そして女たち3人と、特高2人のアンサンブル。“遅筆堂”と自称される井上さんは「拷問場面は、一言、一言、ウン、ウン言いながら書きましたよ」とTVで言っておられたが、やはり、これも初日に間に合うか、あわないかという状態だったらしく、本番二三日前に上がってきた最終原稿の何枚かに、「みんなボロボロ泣きながら稽古しました」と多喜二さんが言っていた。そう、舞台を見ながら、私も不思議な感動で泣いた。多喜二を狙い続けた特高2人に、最後に向けられた作者の眼は、社会の底辺で踏みつけにされ、そこから少しでも這い上がろうと懸命に生きる人々と同じ場にあるのだと気付かされる、特高二人の姿であった。虐殺された多喜二の生き様、そのものが井上ひさしさんの庶民に向けられた愛だと思った。
この大きな、というか、洞察が深い心が無くて、何の“憲法九条か!”と自分を責めている。毎年、大阪女優の会で、平和を願い、戦争を世界中から失くしたいの思いで、公演をしているが、今年8月上演した<遠くの戦争 〜日本のお母さんへ〜 >の作者篠原久美子さんは言われた。
「いつも忘れないようにしている言葉があります。
 『デモの内側から、デモに参加しない人を叱りつけるようなことをしてはいけない。それは市民運動ではない。参加しない人たちにはそれぞれ参加しない理由があるのです。しかし、なにも感じていないわけではない。』鶴見俊輔さんの言葉です。
 世界で起こっている凄惨な事実を知れば知るほど、人はときどき、それを伝える言葉に感情的な責めがまじってしまうことがあります。けれども、事実が厳しいからこそ、それを語るときには、『何も感じないわけではない』心と知性に、静かにしなやかに響く、人を攻めない言葉と構造で、伝えられないものかと考えています。」
 小田実さん、加藤周一さん、井上ひさしさん、澤地久枝さん、大江健三郎さん、どの方もみんな、ご自分の言葉で語られている。
 私は、三浦綾子原作の<母>で、小林多喜二の母を演じはじめて10数年になるが、ずっと多喜二の虐殺に手を下した特高の人の、戦後の顔を見たいと思った。多分、温厚なお爺さんになっていることだろう・・・私は、人間が、状況によって“加害者”に豹変する恐ろしさを、否定できない。いつも自分に問いかけながら、先輩について行くだけだと思っている“わたし”である。


グルジュア紛争の背景

古川 明

一見あたかも唐突に飛び出してきたように思えるグルジュア紛争ですが、実は数年かけて準備されてきたものだったのです。
ロシア側の仕掛けを見てみましょう。チェチェン紛争は有名ですが、カスピ海からロシアにいたるパイプラインが通っているこの地域を、独立させるわけにはいかないロシアの切実な事情が見て取れます。この石油戦略の重要性を鑑みた場合、ロシアを通さないパイプラインの存在を許すことは出来ず、ロシアにとってグルジュアを制することは死活問題でした。サーカシビリ大統領の下、カスピ海の石油輸送基地バクーとグルジュア領内を通って地中海トルコの港ジェイハンを繋ぐ「BTCパイプライン」は2006年に完成しています。これによりロシアはカスピ海の石油の利権を失うと共に、自国のパイプラインの戦略的重要性が落ちたのです。あれだけチェチェンの独立を阻止し続けたのは、パイプラインの希少価値だったのですから、このBTCパイプラインで同じく自国のパイプラインが役に立たたないものになっては、何のために戦ったのかわからなくなります。どうしても権益を奪回する必要があったのです。そのために周到に用意されたのが、グルジュアの南オセアチアとアブバジアでの工作でした。
南オセアチアは、もともとイラン系言語を話すオセット人が多く、ロシアへの帰属意識が高い地域でした。同州はソ連崩壊直後にグルジュアに編入されましたが、当初から分離独立要求が強かったのです。ロシアはこの地域に次々と要人を送り込みました。これは実質支配を狙ったものであり、またこの地域のグルジュア人にロシアの市民権を与えました。市民権を与えるということはそれに伴って社会保障などの権利も与えるということです。このようにしてこの地域の住民は二重国籍となっていました。
古今東西、戦争で侵略するときの謳い文句は決まっています。「自国民の保護」です。昭和初期、日本は満州に多くの日本人を送り込みました。そして、自国民の保護を理由に軍隊を送ったのでした。関東軍です。ナチスドイツも1936年、フランスとの国境地域ラインラントに攻め入りました。ゲルマン民族を保護するという名目でした。
現実にグルジュア領内の南オセアチアに大量のロシア国民がいるわけですから、あとは紛争を起こすタイミングを計っていただけと言えるのです。案の定、ロシア軍は電光石火のごとく、紛争直後から南オセアチアどころかグルジュア全土に展開し、BTCパイプラインを押さえ、石油を運ぶ鉄道までも破壊しました。そして、ポ
チなど黒海に臨む重要拠点はすべて押さえたのです。
ロシアによる越境軍事行動はアフガニスタン侵攻以来で、今回重要な一線を越えてしまいましたが、ロシアからパイプラインで石油、天然ガスの供給を受けているフランスやドイツなどの欧州諸国は、これに対しあまり強い態度に出れないようです。アメリカもグルジュア救済のポーズとして黒海に艦船3隻の派遣を決めましたが、ロシアのグルジュア支配を止めるのは難しいと考えているようです。


母から子へ語り継ぎたい憲法第9条

古川 明

戦争と平和 
第2次世界大戦は、私が5歳の時終戦となりました。その間、父がボルネオ島に出征しました。父はマラリアに罹って病気療養中でしたが何とか生還できました。軍服も靴もボロボロで、もちろんクリーニングなぞしていませんでした。ホームレスよりひどい有様でした。しかし、まさしく、兵隊さんでありました。
私たちの使命は、絶対に第3次世界大戦を起こしてはならないということです。今、現実に若者達は、日本がアメリカと戦争をした国である言うと、びっくり仰天しています。現在の若者達はアメリカが大好きですし、中国も大好きです。私もグアム島を訪れました。妻は、毎年友人や娘達と韓国に行くのが大好きです。今は、家族で韓国ドラマを楽しんでいます。このように、世界が平和であることが、どれほど素晴らしいことでしょうか。今では、私はアメリカ人と遠慮なくお話をします。
さて、今、現在の日本は私たちが造ったものであります。これからも日本は、私たち自身が世界が平和であるべく頑張るべきでありましょう。しかし、どのように私たちは平和のために貢献すべきでしょうか。

姫路平和資料館の見学から
 姫路は、戦前、第10師団(歩兵部隊)が置かれ、川西航空機の工場があり、そこでは海軍の飛行機を510機も製造するという、まさに「軍都」の役割を担っていました。それだけに姫路に対する米軍機(B29)による空襲は熾烈を極めました。1945年6月22日の空襲は、B29、60機によって、2000発の爆弾・焼夷弾が打ち込まれ、死者3210人、被災者10000人以上。また、同7月3日には108機のB29による空襲によって死者4730人、被災者45,000人以上(当時の姫路の人口は10万7千人余り)の被害がもたらされました。空爆の当日は、姫路市の空は真っ黒になるほどB29で埋め尽くされ、雨、あられのように焼夷弾が打ち込まれ、市民はその下を必死になって逃げ惑い、市街地の大半は焼け野原になりました。姫路が「軍都」であったが故に執拗に攻撃され、武器を持たない市民が犠牲となったのです。この資料館の見学によって、核以外の身近な空爆による戦争も恐ろしいものであることを再認識しました。

9条の会の運動を押し広げよう
 6年前、「9条の会」の呼びかけに応えた「草の根の運動」は燎原の火のごとく燃え上がり、全国に7500以上もの「9条の会」が生まれ、憲法9条と平和を守ろうとする力は確実に育ち、強くなっています。しかし、3年前、安部自民党内閣の下で成立した国民投票法は、今年5月18日に施行され、憲法改正案の発議がいつでも出来る状態になりました。
 兵庫県では、2005年9月9日国際会館における「9条」トーク&ライブを皮切りに、06年はワールド記念ホールで「羽ばたけ 憲法9条」、07年には神戸文化ホールで「拡げよう9条の心」などの市民集会を成功させ、この間、県下に240余りの「9条の会」が生まれました。そして国民投票法成立後は、施行までの3年の間に、憲法改正の発議をさせない、あるいは発議されても国民投票法で9条改正について否決する力を付ける必要があることを確認しました。今年の憲法記念日の世論調査では9条を変えることについて国民の7割が反対していますが、一発のテポドンの発射でこの世論の動向が大きく変わる危ういものであることを見逃してはなりません。
 民主党の鳩山政権は普天間基地・抑止力学習問題で迷走し、本日現在、国民そっちのけで行われている民主党代表選びの結果によっては民主党が崩壊し、改憲勢力の大連立も予想されます。普天間基地移設問題から日米安保が見えてきました。民主党政権は日米同盟を「深化」させると明言しており、こと9条と平和問題については「期待より不安が大きい」ことが明確になっています。アメリカ軍はそう強くないのである。
 私たちは軍事力=日米安保(在日米軍と自衛隊)で平和を守るのか、憲法9条=平和を愛する諸国民との信頼関係を強くすることで平和を守るのか、今こそ真剣に考えなければなりません。そして、いま、私たちの社会で起きている様々な問題、格差や貧困、高齢者や青年、あるいは子供達に起きている「命と暮らし」を守る問題が、9条を守ることと無関係でないことを確信し、一服することなく「9条の会をさらに大きく、さらに強くする」活動を広げていくことを誓いたいものです。



 
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