私の戦争体験



(その1)

語り部 岡井理一さん 「戦時下の思い出 ペリリュー島」

4月28日(木)東神戸薬局3階会議室で、東灘在住の方に戦争体験を語ってもらう企画「シリーズ 私の戦争体験」の第1回目が行われました。
語り部は岡井理一さん、テーマは「戦時下の思い出 ペリリュー島」で、聞き手は石田健一郎さんでした。
この集会では、第1部として、NHK問題を考える会兵庫が貸し出しているドキュメントDVDの「緑の島が戦場になった」の中の「ペリリュー島 〜玉砕が許されなかった島」を上映し、第2部で岡井さんに語っていただきました。  

DVD 「ペリリュウ島 〜玉砕が許されなかった島〜」

 このドキュメンタリーは、パラオ諸島の中の夢のような珊瑚礁の島ペリリュウ島で、1万余名の日本軍と4万余名の米軍が死闘を繰り返し、両軍ともほとんど全滅状態になる戦闘がなぜ行われたかを、作家が島を訪れて案内人と共に島をめぐりながら探る形を取っていました。米軍が4万の大軍でこの島の占領を目指したのは、この島にあった飛行場を制圧し制空権を握るためでした。しかし、米軍が上陸作戦を慣行した時には、すでにこの飛行場を利用する日本軍の航空機は1機もない状態でした。
 日本軍は飛行場を占領された後、島の中央部の珊瑚礁の洞窟に潜んでゲリラ戦を挑みました。多勢に無勢の日本兵は次第に消耗し、軍隊の体をなさぬ遊軍状態になり、生きるために水や食糧を奪う死闘を繰り返すようになりました。現地の指揮官は、最後の万歳突撃、すなわち、玉砕の許可を本国に求めましたが、大本営はペリリュウ島で奮闘することが全軍の士気を鼓舞するという理由で、玉砕すら、すなわち、死ぬことすら許しませんでした。そして、島に届けられたのは、食糧や弾薬などの補給物資ではなく、天皇陛下のお褒めの言葉でした。そうした中で、ガラス瓶に閉じ込められたさそりが死闘を繰り返して共食いをするように、1万余名の日本軍のほとんどが戦死し、米軍も多大な死傷者を出すまで、戦闘は70余日続けられました。作家の「この戦いに意味があったのか?。これはまさに戦争の不条理ではないか?」という問いかけでドキュメントは終わりました。

岡井さんのお話の要旨
○ さらばラバウル 
 私が気象兵として戦地に赴いたのは、太平洋戦争が始まって約1年後、「さらばラバウルよ、〜」という歌で有名なラバウルだった。当時、1942年8月、米軍がソロモン諸島のガダルカナル島に上陸して連合軍の反攻が始まった。激戦の末、43年2月日本軍が敗退して同島を撤退。多くの艦船や航空機、熟練したパイロットを喪った。陸上では、補給路をたたれた陸軍兵士に多くの餓死者が出た。次はラバウルだろうと思いつつも、嵐の前の静けさが続いた。そのうち、2,3機の米軍偵察機が現れ、次いで数十機、数百機が来襲して、日夜激しい空襲にさらされるようになった。昼は動けず、夜はジャングルの奥深く逃げ惑う日が続いた。12,3名いた班が、密林を逃亡する中で、飢餓やマラリアでバタバタ倒れ、帰ってきたのは2名だけだったこともある。ある日、突然、気象班は駆逐艦に押し込められて、ラバウルを後にし、パラオ諸島のペリリュー島に移動して、私は九死に一生をえた。

○激戦の島ペリリュー島 
 ペリリュウ島も当初は平穏だったが、ある新月の夜、米軍の軍艦が4隻現れサーチライトを照らしつつ威嚇艦砲射撃をしてきた。島民50数名を天然の洞窟の中に非難させ、入り口を私たち若い兵士が交代で不審番をした。手薄な島に米軍が上陸したらひと溜まりもない。私は銃に実弾をこめて自決の覚悟をした。不思議なことに、一夜明けたら米軍の艦影はぷっつりと消えていた。1ヵ月後、1万余名の日本陸軍が上陸してきた。気象班は陸軍には必要ないので、陸軍上陸後、まもなく船で南方のインドネシアのハルマヘラ島へ移った。もし、そのままペリリュー島にいたら、私は現在ここに居ないであろう。

○ ハルマヘラ島の1年
 ハルマヘラ島には輸送部隊約9千名の楓兵団が駐屯していた。44年2月、米軍はマーシャル諸島のルオット島に、次いでブラウン環礁に上陸し、日本軍守備隊は全滅した。17日から18日、米軍機動部隊がトラック島を攻撃して、日本軍は航空機270機、艦船40数隻を失うという大損害をこうむった。これにより、トラック島は完全に基地機能を喪失した。私たちはこうした日本軍敗退の戦況を知らされないままに過ごしていた。そして、8月15日に、正式に敗戦の知らせを受けた。武装解除が始まり、オーストラリア軍、イギリス軍、アメリカ軍の兵士がやって来て、時計、万年筆、家族の写真など、根こそぎ奪っていった。武装解除の後、私は気象班から独り楓兵団本部の報道班に出向を命ぜられ、報道班十数名と約1年後輸送船が島に来る直前まで任務についていた。故国の地を踏んだのは、終戦の翌年の1946年7月、和歌山の紀伊田辺であった。

○ 敗戦後
 敗戦は価値観の転倒で、始めは呆然自失の状態であった。しかし、神戸市役所に勤めて、労働組合運動にかかわる中で、少しづつ何が正しくて、何が間違っているかが分かる様になってきた。そして、レッドパージ反対闘争にかかわるようになり、現在3人の原告が国を相手取って2000万円の損害賠償を求める裁判闘争が続いている。これまで8回公判が行われ、もうじき結審される。
 
 あれから60年、日本は憲法九条により戦争に巻き込まれないで過ごしてきました。再び、私が体験したような戦争を起こさせないためにも、皆さんと共にがんばりたいと思っています。本日は、私の拙い話を聞いていただいて有難うございました。


 
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